日経グッデイ

あの人のカラダマネジメント術

野人・岡野さん 重圧をはねのけ「ジョホールバルの歓喜」をつかむ

元サッカー日本代表・現ガイナーレ鳥取代表取締役GMに聞く(2)

 高島三幸=ライター

手違いでサッカー部がない高校に入学し、経験ゼロの先輩たちをかき集めてサッカー部を立ち上げ、県大会ベスト4までに導いた岡野雅行さん。日本大学サッカー部では負傷した先輩に代わって出場した試合で6ゴールをたたき出し、洗濯係からレギュラーに昇格する(「野人・岡野雅行さんのサッカー人生 高校から逆境続き」)。決してサッカーエリートではない岡野さんは、どのような思考とメンタルで、1997年FIFAワールドカップ・フランス大会アジア最終予選において日本代表をワールドカップ初出場に導くゴールを決め、世に言う「ジョホールバルの歓喜」に貢献したのか。

サッカーエリートではなかった自身の道のりについて語る元サッカー日本代表の岡野雅行さん

日大サッカー部のレギュラーになってから、3年生のときにJリーガーの座をつかまれます。どうやってJリーガーになられたのですか?

 日大サッカー部のフォワードとしてレギュラーが定着し、2年の時に東西対抗のメンバーに選ばれます。当然ながら世界が広がると、僕より上手な選手が山ほどいると分かり、特徴や武器がないと生き残れないと思いました。そんな時、体育の授業で100メートル走を計ったら、10秒7という記録が出て驚いたんです。しかも靴はバッシュ(バスケットシューズ)で(笑)。

ロールモデルはクラウディオ・パウル・カニーヒア

 自分の強みであり武器になるのは「足の速さ」だと改めて分かりました。その長所を伸ばして試合で生かそうと、プレースタイルを変えたのです。足が速くディフェンダーをあっという間にごぼう抜きにする、僕の好きなアルゼンチン代表のクラウディオ・パウル・カニーヒアをロールモデルにし、彼をとことん目指そうと思いました。

現役時代の岡野さん。長髪がトレードマークだった(C)GAINARE TOTTORI

 録画した彼のプレーを何度も見返し、動きをマネしながら練習しました。足の速さを生かすために、スピードを落とさないためのトラップ(*1)の練習もしましたし、どれくらいのスピードのボールに、どこまでの距離なら追いつけるのか研究し、実戦でもどんどん試しました。

 僕が髪の毛を伸ばしたのも、髪をなびかせてフィールドを走り回るカニーヒアをマネたからです(笑)。それぐらい彼のプレーを頭でイメージしながら、自分のプレーに染みつかせていきました。練習すればするほど、僕のスピードプレーは磨かれていったと思います。大学2年で開花するという遅咲きプレーヤーでした。

 大学3年生の時に、Jリーグが発足しました。それまでサッカーで生計を立てるなんて想像しづらく、途中でやめる選手も多かったと思いますが、Jリーグが華々しく発足したおかげで、「あの舞台でプレーしたい!」という明確な目標ができた選手も多かったと思います。僕も憧れを抱きましたが、所詮、大学2部リーグチームに所属する選手には、夢のまた夢のような話でした。でも、ある時チャンスが訪れたのです。

大学を中退してJリーガーに

どんなチャンスが訪れたのですか?

*1 飛んできたボールを(手以外の)体の一部で受け止めること

 その年の天皇杯関東大会初戦で、強豪の筑波大学と当たりました。当時の筑波には、藤田俊哉選手などその後、日本代表で活躍するそうそうたるメンバーがそろっていました。そんな、大学では「向かうところ敵なし」のチームを相手に、僕は持ち前のスピードを生かして何と2ゴールを決め、2対1でまさかの勝利をおさめてしまったのです。残念ながら2回戦で敗退しましたが、筑波戦での僕のプレーを見てくれた6チームものJリーグのスカウトから声がかかりました。

 相手が強豪だからこそ、挑戦者として開き直り、思い切ったプレーができたことが得点につながったのかもしれませんが、Jリーグに入れたのは、「足の速さ」という強みを意識してとことん追求していった結果だと思っています。

スカウトされてそのままJリーガーに?

 本当にうれしかったんです。サッカー部がない高校に入り、大学のサッカー部でも洗濯係だった僕に、初めて「サッカーをやってほしい」というお誘いが来た。断ればバチが当たるぐらいに思いました。

 関東にある3つのJチームの練習に参加させてもらい、結局、大学を中退して「浦和レッドダイヤモンズ(浦和レッズ)」に入団することを決めました。当時は先輩に福田正博さんがいて、彼を目標に頑張ろうと思いました。

プロ1年目にして、日本代表に

 その後、トップチーム(一軍)とサテライトチーム(二軍)を行き来しながら、少しずつトップチームでの出場時間を伸ばしていきました。でも、当時の浦和は負けてばかりの弱いチームでした。あまりにも弱くて、1年でクビになるかもと開き直ったぐらいです。それが良かったのか、Jリーグ開幕から5連敗をしたところでスタメン出場のチャンスが来て、その試合でゴールを決めて勝つことができたんです。そのままトップチームのレギュラーの座をつかみました。そしてプロ1年目にして、僕は初の日本代表に選ばれたのです。

 三浦知良さんやラモス瑠偉さん、北澤豪さんなど、僕から見れば憧れの人ばかり。22歳の僕は合宿所でも食事が喉を通らないぐらい緊張していました。代表チームでは、憧れだったカズさんをロールモデルにし、目指すことにしました(笑)。

「ジョホールバルの歓喜」の舞台裏

97年、98年のワールドカップ出場を懸けた予選でも、日本代表に選ばれました。

 僕は自分をストライカーではなく、チャンスメーカーだと思いながらプレーをアピールしていたのですが、監督は起用してくれず、出場するチャンスはなかなか巡ってきませんでした。

 そんななか、勝ち点が取れず首位韓国との勝ち点差が7に開き、残り4試合を残して加茂周代表監督が更迭されるという事態に陥ります。岡田武史コーチが監督になりますが、出場経験のない日本がワールドカップ開催国になるという最悪のシナリオも脳裏に浮上し、緊張と重圧と腹立たしさ、そして疲労で、レギュラーメンバーは次第に口数が少なくなり、ピリピリした雰囲気が漂っていました。

 ただ僕だけは元気でした。監督が使ってくれないので(笑)。頑張ってみんなを笑わせようとしましたが、出場できないフラストレーションはたまっていきました。そこである日、起用されない理由を岡田監督に聞きに行きました。その答えは「お前は秘密兵器だ」。真剣な顔で言われたので、単純な僕は納得して部屋に帰りました。

 その後も秘密兵器が使われることなく、やきもきしながらふてくされていた僕でしたが、97年11月16日、出場枠を懸けたイラン代表との一戦で運命の時を迎えるわけです。

イランに勝たないとワールドカップに出場できない運命の試合でした。

 それはイランも同じで、彼らも必死だったと思います。後半を終えても2対2の同点のまま、点が欲しいのに入らない一進一退の攻防が続きました。そんな状態で最後の交代要員として、攻撃の選手である僕が指名される可能性が出てきました。「ドーハの悲劇」をほうふつさせるような何とも言えない嫌な雰囲気が漂い、周りもざわざわし始めた時です。

 そんな運命を決めるタイミングで僕が出場し、万が一ゴールを決められなかったら、国民から戦犯扱いされるのではないかという恐怖に包まれました。負けては日本に帰れないと思っていましたし、逃げ出したくなるくらい重圧に押しつぶされそうでした。嫌な汗をかき、生まれて初めて「試合に出たくない」と、サッカーを恨んでしまったぐらいです。

 でも、同点のままゴールデンゴール方式の延長戦に入り、岡田監督に「岡野、来い」と呼ばれてしまいました。「入れてこい!」と一言だけ声をかけられ、押し出されるように白線を越えてピッチに入りました。初出場がこんな場面だなんて、「うそだろ……」という状態。あの時の記憶はあまりないのですが、とにかくヒデ(中田英寿元代表選手)がボールを持てば、本能的にピッチを全速で走っていたと思います。尋常でない雰囲気の中、やはり緊張からか僕はゴールを外して、2回もチャンスを逃してしまい、延長戦前半を終えました。

シュートを外した罪悪感でさらに落ち込まれたと思います。

 そうですね。でもフィールドを入れ替えるわずかな時間に、肩を落とした僕にチームメートが駆け寄り、「大丈夫だ」「お前のせいじゃない」と励まし、背中をたたいてくれました。重圧と申し訳なさで吐きそうだったのを覚えていますが、あの時、仲間が声をかけてくれなかったら、そのままピッチから逃げてしまったかもしれません。仲間のおかげで「もう一回頑張ってみよう」という思考に短時間で切り替えられました。

「あんな経験、もう二度としたくないですが……」

 それでも後半戦もゴールを何度も外してしまって、ボールを追うのをやめてしまいたくなりましたが、そんな気持ちをぐっと抑え、走り続けました。そしてヒデがシュートを打ち、ゴールキーパーが弾いたボールが僕の前に転がってきたのが目に入った瞬間、スライディングしながら右足にボールを当てて悲願のゴールを決めました。

 うれしかったです、これで日本に帰れると思った。正直、ワールドカップに出場できることはどうでもよくなっていました。

それぐらい追い詰められた精神状態だったんですね。

 僕だけでないと思います。試合が終わった控え室では、ビールかけがあってもいいものですが、みんなまるで負けたようにため息をつき、バスの中ではシーンと静まり返っていました。ホテルで迎えてくださった花道を歩いていても「ありがとうございます……」という低めのテンションで、食堂では祝いのシャンパンも飲まず、みんな自分の部屋に戻って行きました。それぐらいホッと安堵したのと、心身ともに疲れ切った状態だったのです。

 あんな経験、もう二度としたくないですが、あの経験があったからこそ、今、サッカーチームのGMという立場でどんな仕事をしても緊張しないし、怖いものはなくなりました。

「野人・岡野さん 悩んでも現状は変えられない『行動あるのみ』」に続く)

(カメラマン 厚地健太郎)

◆元サッカー日本代表・現ガイナーレ鳥取代表取締役GMに聞く

第1回 元サッカー日本代表・「野人」岡野雅行さん 高校からの逆境人生
第2回 野人・岡野さん 重圧をはねのけ「ジョホールバルの歓喜」をつかむ
第3回 野人・岡野さん 悩んでも現状は変えられない「行動あるのみ」
岡野雅行(おかの まさゆき)さん
元サッカー日本代表、ガイナーレ鳥取代表取締役GM
岡野雅行(おかの まさゆき)さん 1972年生まれ。日本大学中退後、浦和レッドダイヤモンズ入団。日本代表メンバーに選出され、97年のFワールドカップ・フランス大会アジア最終予選で日本を初のW杯出場に導く決勝ゴールを決めた。2013年引退、ガイナーレ鳥取GMに就任。2014年から夏・冬の2回、新戦力獲得のための寄付プロジェクト「野人プロジェクト」を開始。11回目の今回は梨や和牛など11種の御礼品を用意。9月末まで受付け中。