鈴木明子さん スケート選手としての転機になった「摂食障害」
フィギュアスケート五輪元日本代表の鈴木明子さんに聞く(上)
高島三幸=ライター
帰宅すれば、まず体重計に乗りました。あの頃は1日8回ぐらい乗っていて、体重が少しでも増えていると、もうパニックになった。水を飲んだだけで増えるのは当たり前なのに、冷静に考えられなくなるのです。
摂食障害から脱却するきっかけとなった母の一言
この病気の本当の怖さは、脳のコントロールができなくなることだと思います。48kgだった体重はたった4~5カ月で32kgまで落ち、当然体調が悪くなって練習を休むようになって、大学にすら行くこともつらくなった。「これ以上痩せたら危ない!」と分かるはずなのに、食べれば止めどなく太るような気がしてならず、食べられませんでした。
さすがに長久保コーチや大学の部長もおかしいと気づき、実家に帰って病院に行きなさいと言われました。病院に行くことはつらかった。だって、「体重の数値だけが頑張った証し」だったから。それに「摂食障害」という病名をつけられてしまうと、それまでの努力がムダになり、自分を否定されることになります。だからかたくなに「私は病気じゃない」と言い続けていましたね。そんな中、医師からは、このままではトップレベルの競技復帰は不可能だと言われ、目の前が真っ暗になりました。
たった数カ月でガリガリになって帰ってきた娘を見て母は言葉を失い、最初は病気を、そして病気を患った私を、受け入れられない様子でした。
母に「食べなさい」「お願いだから食べて…」と言われるほど、せっかく作ってもらったご飯がどうしても食べられない。そんな「食べる」という本能的な行為ができないことに葛藤し、自分を責め、誰からも認められないつらさに落ち込みました。体力がなさ過ぎて寝たくても眠れないし、スケートをやりたいと思っても電車に乗ってリンクまでたどり着けない。「生きている意味があるのかな」。そんなことを思いながら、どん底にいる気分でした。
「食べられるものから食べよう」
私が回復するに至ったきっかけは、母からのこの一言でした。「食べなさい」「野菜とお米も食べないと」という言葉から、「食べたいものを食べればいいわよ」という言葉に変わり、私は母に摂食障害を患った自分を受け入れてもらえているような感覚を覚えました。「何もできていない私でも、生きていてもいいんだ」と思えるようになったんです。少しずつ回復して母が作ってくれたものを食べたとき、「ああ、食べてくれた」と母は泣いていました。
※次回記事「苦難を乗り越えるのに重要な『イメージ喚起力』」に続く
(写真:鈴木愛子)
◆フィギュアスケート五輪元日本代表の鈴木明子さんに聞く
