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現役エージシューターの「山あり、谷あり、ゴルフあり!」

全部自己流!? 学校の砂場でバンカーショットの練習も

第2回…映画「社長シリーズ」を地でいく時代にゴルフに開眼【矢嶋正一さん】

 高橋健二=ノンフィクションライター

ゴルフを嗜む者であれば、生涯に一度は経験したいことが3つあるとされる。「ホールインワン」「アルバトロス」、そして「エージシュート」だ。偶然などによってもたらされることが多いホールインワンなどとは違い、自分の年齢よりも少ない数字のスコアで回るエージシュートは、真の腕前だとされる勲章の1つ。そして何より、70代、80代、90代…でゴルフができる「元気の証」でもある。ゴルフを始めた経緯も、その人生も様々。現役エージシューターから学ぶ「体のこと」「ゴルフの極意」をお届けする。川越市ゴルフ協会の会長を務める矢嶋正一さん(86歳)の第1回は「日本グランドシニア優勝! スゴ腕“元銀行マン”の飽くなき挑戦」、第3回は「ゴルフ雑誌とテレビが私のスイングの先生」で12月17日公開予定。

「お前は体がいいから予科練に行け」

 埼玉県川越市に住む矢嶋正一さん(86歳)は、川越市ゴルフ協会の会長を務める一方で、エージシュート回数が通算374回というスーパーシニアゴルファーである。

 矢嶋さんは1929年(昭和4年)6月7日、川越市内の農家に生まれた。終戦を迎えたのが旧制川越中学3年の夏。俗にいう「戦時少年」で、中学2年のときには担任から予科練(*1)に進むように指導されたという。

 「中学に入ったばかりの頃に、お前は体がいいから予科練に行けと勧められましてね。私が陸士に進みたいというと、お前の成績では陸士は無理だといわれました」(矢嶋さん)

 その後、旧制川越中学を卒業して早稲田大学に進み、1952年(昭和27年)に埼玉銀行(現りそな銀行)に入行した。ゴルフを始めたのは1958年(昭和33年)、都心の丸の内支店で渉外係として営業畑を走り回っていた頃である。

 「当時は高度経済成長期に突入したばかりで、とにかく企業の資金需要が旺盛な時代でした。企業は金を借りてモノを作ればいくらでも儲かった。だから、企業の経理課長や部長は銀行詣でが仕事みたいなものでした。銀行から金を借りるために、俗にいう接待ゴルフが始まったのもこの時代です」(矢嶋さん)

矢嶋さんはほとんど歩いてラウンドする。歩き方は競歩並みに速い
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 改めて1958年当時の世相を紹介すると、日本経済は年平均10パーセントという右肩上がりの高度成長期で、岩戸景気と呼ばれた時代。テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の“3種の神器”が庶民の憧れで、スーパーカブ、スバル360、日清チキンラーメンが売り出されて、東京タワーが完成した年だった。スポーツ界では大相撲の栃若(栃錦、若乃花)とプロレスの力道山がブームを二分し、長嶋茂雄が巨人に入団している。さらにフラフープやロカビリーが大流行し、「おーい中村君」(歌・若原一郎)、「星は何でも知っている」(歌・平尾昌晃)、「からたち日記」(歌・島倉千代子)などの流行歌が街に流れていた。

(*1)予科練:旧日本海軍の「海軍飛行予科練習生」

年率10%以上の高度成長期にゴルフを始める

 「当時、私は入社6年目の営業マンだったのですが、8ミリカメラの撮影ができるというので、営業課長からゴルフのプレー中の撮影をするように指示されたんです。でもゴルフ場に行く足がありませんというと、クルマを迎えによこすと。で、翌朝、玄関先に得意先会社のクライスラーが迎えにきて、それで出かけてゴルフ場で撮影をして回り、現像したら料亭に集まって映写会を開催するという、まあ、今では信じられないような時代でしたね。そのうち、きみもゴルフの練習をしておきなさいと言われて、それでゴルフをするようになったのです」(矢嶋さん)

 言ってみれば、俳優の故・森繁久彌主演で大ヒットした映画「社長シリーズ」を地でいくような時代であったのだろう。矢嶋さんは上司に指示され、当時、大手町のサンケイビルの屋上にあった練習場のゴルフ教室に通うようになった。

 「サンケイビル屋上にあった鳥かごのような練習場のゴルフ教室に3カ月ほど通った頃に社員旅行があり、1泊で鬼怒川温泉に出かけ、翌日の鬼怒川CCのコンペに参加したのが、私のコースデビューですね。スコアは前半60で、後半は7番まで40ペースできていて、このままいけば50を切るなと思った途端にOBを2発叩き、結局50幾つでした(笑)」(矢嶋さん)

 初ラウンドで、あわや100を切るかという好スコア。これが矢嶋さんのゴルフ熱に火をつけたことはいうまでもない。

 「当時、私が所属していた丸の内支店の渉外係は6~7人いまして、その頃、“早帰り運動”というのがあって、週に1度は仕事を早く終えて帰る決まりになっていました。ところが、全員、真っすぐ家に帰らず、サンケイビルの屋上に行って練習をしていました。ほかにも後楽園競輪場のテラスを利用して打席を作った練習場や、芝のプリンス練習場など、あちこちの練習場をハシゴして回りました」(矢嶋さん)

河川敷や造成中の空き地、学校の砂場でも練習した

 練習場だけに飽き足らず、休日は自宅近くの河川敷でも練習した。

 「河川敷では、主にアプローチの練習ですが、歩いて10歩のところから10ヤード刻みで打ち分ける練習をしました。冬は午後になると北風が吹くので、朝の9時頃に霜が融けるのを待って出かけるんです。河川敷の土手で練習すると、つま先上がりもつま先下がりも左足上がりも左足下がりも練習できた。草の中にボールを埋めて深いラフから脱出する練習もしましたよ」(矢嶋さん)

 また、当時はそこらじゅうに工業団地が造成されていて、建物が建っていない空き地があると、そこも矢嶋さんの格好の練習場になった。

 「夏休みには学校の校庭の砂場に出かけてバンカーショットの練習をしましたし、稲を刈ったあとの田んぼの切り株の上にボールを乗せて打ったりもしていました(笑)。切り株の高さが、ちょうどティアップしたのと同じ高さで、いい練習になったんですよ」

学校の砂場で特訓を積んだバンカーショットの腕前はいまも健在だ
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 ゴルフの練習場自体があまりない時代だったというが、この練習熱心さに支えられて、矢嶋さんの腕前はめきめき上達した。

 「上達は比較的早かったと思います。矢嶋は上手いと行内で評判が立ったので、銀行のお客様を接待するコンペにも出て幹事の手伝いをさせていただきました。そんなときは朝早くゴルフ場に行き、さっと練習して、みんなが来る頃には背広に着替えて受付に立っていました。私の場合は、仕事の上でもゴルフがずいぶん役に立ちましたね」(矢嶋さん)

全部、自己流。素振りは毎日欠かさず

 矢嶋さんがゴルフを始めて間もない1963年に東松山CCがオープン。会員募集をしているのを知り、すぐにメンバーになった。それから仕事のない週末はよくゴルフ場に通うようになり、3年後にシングル入りする。

 「東松山CCはなかなかシングルにさせないことで有名だったのですが、3年後に達成し、研修会にも入って1973年からはクラブ対抗の代表選手にも選ばれ、2008年まで出場しました。シングル入りした当時のドライバーの飛距離は230ヤード前後でした」(矢嶋さん)

 ハンディキャップは最高1で、現在も5を維持している。ただし、スイングは最初にゴルフ教室に通っただけで、その後、プロについたとか、コーチを受けたことはまったくないという。

 「全部、自己流です。ただし、素振りは毎日やりました。夏などは暑くて汗が出るでしょう。黙っていても汗をかくのだから、それなら家でゴルフの練習をして汗をかこうと、暑いときほどよく素振りをしました」

 矢嶋さんは86歳になった現在も、若い頃と変わらない練習量を維持している。次回は、そんな矢嶋さんの練習法を中心に現在のゴルフライフを紹介しよう。

*次回(12月17日公開)は『ゴルフ雑誌とテレビが私のスイングの先生』をお届けします。ぜひご覧ください。

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