こうして、まず「他人に迷惑をかけない」というゴルフマナーのイロハから教えられてスタートしただけに、和田さんのゴルフは自分に厳しくかつ清々しい。プレイファーストはもちろん、歩きが速く、バンカー直しやグリーン上のボールマークの修理も手際がよくて、一つひとつの行動によどみがない。
「ゴルフは人生の哲学に通じるものがある。若い人たちによく言うのですけど、ゴルフのルールブックの最初に何が書いてあるか。マナーがあってゴルフがある。その基本は一緒に回る人に迷惑をかけないこととか、後から来る人に気持ちよくプレーしてもらうということです。これ、人間が社会生活を営んでいくための基本でね。それさえきちんと守れば、誰とでも、どこででてもやっていける。こういうゴルフの精神が好きなのです」(和田さん)
戦後、金策に駆けずり回り自殺も3度考えた
和田さんが自己を律するゴルフの精神に共感するのは、若き日の経験と無縁ではなさそうだ。1929年(昭和4年)生まれの和田さんは、16歳のときに海軍を志願して神奈川県久里浜の海軍機関学校に入った。すでに戦局は敗色濃厚になりつつあった時期だが、むろんそんなことは知る由もない。
「半年間の教育訓練を受けて実戦配備に就くときに、『お前は親一人、子一人の家庭だから前線に出すのは忍びない。海軍省へ行け』といわれ、霞が関の海軍省に配属されました。仕事は海軍省の地下8階にあった海軍の通信機を動かす発電機を守るのが役目です。機関学校の同期生は50名。うち6名が海軍省詰めになり、残りの44人は全員戦死。それも敵と一戦交える前に輸送船の中で死んでいる。俗な言い方をすれば『女性も知らずに』です。彼らの無念を考えると今も胸が張り裂けそうになるんですよ」(和田さん)
海軍省詰めの時期には、1945年3月11日の東京大空襲も経験している。
「アメリカの絨毯爆撃は文字通り女子供の区別なく、無差別に市民を焼き殺している。文字通り阿鼻叫喚の地獄絵ですよ。アメリカが民主主義だとか戦争を早く終わらせるためだとか、どんなきれいごとをいっても、あれだけは絶対に許せないという気持ちが心のどこかにありますね」(和田さん)
こうして終戦を迎えた直後は、食うや食わずの日々を送り、1953年に会社を興す。
「中小企業は好不調の波が激しく、金策に駆けずり回って自殺を考えたことがこれまでに3度あります。でもそのたびに、戦争中のことを思えばどうってことないと言い聞かせて乗り越えてきました。そりゃ何があってもあれ以上のことはあり得ないと思いますよ」(和田さん)
シングルプレーヤーになるとゴルフ場での扱いが違った
話を元に戻そう。砧ゴルフ場に通い始めた和田さんは、寝食を忘れてゴルフに熱中した。その甲斐あって6年目には砧ゴルフ場のオフィシャルハンデ7になった。押しも押されもしないシングルプレーヤーである。
「あの頃は、シングルというだけでゴルフ場の扱いが違ったんです。だいいち、キャディさんの態度が明らかに違った。尊敬のまなざしで見るんです。直立して肩に力が入っていて緊張しているのがわかるんですよ(笑)。今はシングルなんて掃いて捨てるほどいるし、キャディさんが緊張するなんてこともないですけどね」(和田さん)
ちなみに、現在、和田さんがメンバーになっているゴルフ場は、湯河原CC(神奈川県)、梅ノ郷GC(群馬県)、佐久平CCと望月CC(ともに長野県)で、すべてのコースでグランドシニアチャンピオンに輝いている。ハンデは最高6で、現在は9のシングルを維持している。ラウンド数は年間およそ30回。これまで登場したエージシューターと比べると、ラウンド数はかなり少ないが、それでもエージシュートは通算34回を記録している。さらに72歳の年には軽井沢900CCにおいて、アルバトロスも達成している。
ドライバーの飛距離はかつてのパーシモンヘッドで220ヤード。そして86歳となった今でも、200ヤードをキープしている。それを生み出す独特のスイングは、ゴルフ専門誌『書斎のゴルフ』(日本経済新聞出版社)の本條強編集長が「逆けさ斬り打法」と命名したほど。86歳にして200ヤード飛ばすスイングとはどんなものか。その打法にたどり着いた秘密とともに、次回、詳しく紹介しよう。
*)次回(10月19日公開)は、『「逆けさ斬り」打法、86歳でも飛距離200ヤード超』をお届けします。ぜひ、ご覧ください。