「当時、砧ゴルフ場には故・中村寅吉(*1)さんがヘッドプロでいて、若き日の安田春雄や榎本七郎といった、やがて日本を代表するプロとなる人たちが研修生として働いていました。安田プロが後にアイアンの名手になったのは、寅さんが赤土の粘土を運び込み、それを畳一枚分に広げた上から4番アイアンで打つ練習をさせていたからです。粘土の表面を薄皮一枚剥ぐようにして200ヤード先に落ちてスピンが効く打ち方をさせて、そりゃあ見事なものだった。樋口久子プロのお姉さんも事務員で働いていてね、そのお姉さんの紹介で樋口さんは寅さんに弟子入りしたのだという話を聞きました」(和田さん)
和田さん自身、寅さんの教えを受けたこともあるという。
「ある日、砧ゴルフ場にあるバンカー練習場で練習をしていたら、通りかかった寅さんが『お前、何をやってるんだ?』と聞いてきた。『バンカーの練習ですけど』と答えると、『バンカーってのはな、こうやって打つんだよ』といって、20ヤード先の籠に3発打って2発入れた。『わかったか』と問われて、『いえ、わかりません』と答えたら、『見ていたのにわかんないって、どういうことだよ』と、笑いながら煙に巻くようにしてクラブハウスのほうに引き上げていきましたけどね(笑)」(和田さん)
寅さんお薦めのSW(サンドウェッジ)にも、随分“お世話になった”という。
「寅さんの親戚がゴルフクラブの製造をしていたようで、勧められてSWを買ったのですが、これがよかった。ネックの具合がよくて構えやすく、バンカーからウソのようにボールが出るんです。今もバンカーショットは得意ですが、その当時、バンカーの練習が面白くて一生懸命やったからかもしれませんね」(和田さん)
和田さんがゴルフを始めてから3年後の1957年、中村寅吉は霞が関CCで開催されたカナダカップ(現在のワールドカップ)で個人の部に優勝するとともに、小野光一と組んだ団体戦でも優勝を果たし、一躍その名を日本中にとどろかせた。それと同時に、戦後の日本に第一次ゴルフブームももたらした。いわば寅さんの絶頂期に和田さんは薫陶を受けたのだった。
「寅さんに教えてもらったのはバンカーショットだけ。下のお名前は失念しましたが、ふだんは大歳(おおとし)さんという駒沢の練習場に所属していたプロにスイングを見てもらいました」(和田さん)
「ゴルフは人生の哲学に通じるものがある」
日本のゴルフが勃興期を迎えた昭和30年代といえば、ハンデが28くらいにならないとコースには出られない習わしだった。
「パー72プラス28でちょうど100。つまりそれぐらいの腕にならないとラウンドさせてもらえなかったのです。私にゴルフを勧めてくれた先輩から、メンバーコースに連れて行って100以上叩かれたら、他のメンバーさんに迷惑をかけるんだよといわれまして。だからコースに出るまで約1年半、練習ばかりしていました」(和田さん)