日経グッデイ

現役エージシューターの「山あり、谷あり、ゴルフあり!」

社長の座と引き換えに、58歳から始めたゴルフライフ

第1回…ゴルフ未経験の銀行マンがエージシューターになるまで【金子勝男さん】

 高橋健二=ノンフィクションライター

ゴルフを嗜む者であれば、生涯に一度は経験したいことが3つあるとされる。「ホールインワン」「アルバトロス」、そして「エージシュート」だ。偶然などによってもたらされることが多いホールインワンなどとは違い、自分の年齢よりも少ない数字のスコアで回るエージシュートは、真の腕前だとされる勲章の1つ。そして何より、70代、80代、90代…でゴルフができる「元気の証」でもある。ゴルフを始めた経緯も、その人生も様々。現役エージシューターから学ぶ「体のこと」「ゴルフの極意」をお届けする。

高校時代に父が急逝、大学進学を諦めて就職

 晩年は自分のためにとっておいた―。

 恐らく、今も現役で働くサラリーマンは、皆そういう思いで人生設計を考えているに違いない。だが、いくら綿密に目標を立てても、つい諸般の事情に流されてしまって思い通りにできないのが人生。思い通りにするには何かを捨てなければならないのに、そうこうしているうちに時は無情にも流れていく。

 今回ご紹介するのは、一度きりの人生で「思いきって捨てた」ことで、誰もがうらやむ晩年を送っているエージシューターである。

金子さんのバランスのいいフィニッシュ。コンパクトなトップから大きなフォロースルーで打ち抜き、77歳の今もドライバーで平均230ヤードを飛ばす。
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 神奈川県横浜市に在住する金子勝男さんは、旧財閥系の元大手信託銀行マン。1938年4月23日生まれの今年77歳である。

 「生まれも育ちも、現在の横浜市青葉区です。今では東急田園都市線が通って高級住宅が並ぶベッドタウンになっていますが、私が子供のころは“横浜のチベット”といわれていました(笑)」(金子さん)

 金子さんが生まれた1938年というのは、日中戦争が泥沼化し、世相全体がだんだんと戦争一色へと染まっていく気配を漂わせていた。やがて太平洋戦争に突入し、さらに戦後の困窮した時代が続く。農家の次男に生まれた金子少年は、働き者の両親のもとで貧しいながらも、それを不自由と感じないで元気いっぱいに育った。

 そうした状況が一変したのは金子さんが高校2年生のときである。父親が47歳の若さで亡くなったのだ。心臓病だった。大学進学を夢見ていた金子少年は、急きょ進路変更を余儀なくされた。

 「もう大学どころではなくなり、高卒と同時に就職しました」(金子さん)

「われわれが日本経済の屋台骨を支えているのだ」

 就職先は旧財閥系の大手信託銀行だった。当時、大手の銀行には指定校制度があった。誰もが入社試験を受けられるわけではなく、銀行側が指定した学校の生徒のみが受験できるというものだ。当然、高校側は選り抜きの優秀な生徒だけを送り込んだ。そういう意味で金子少年は、もともと優秀な生徒だった。

現役でバリバリの銀行マンだった頃の金子さん。躍動感あふれるスウィングにゴルフをする喜びが滲んでいる。
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 こうして大手信託銀行に入社したのが1957年。前年の経済白書の結びに記された「もはや戦後ではない」が流行語になり、戦後の復興景気が一段落した時期である。

 金子さんが入社した3年後には、「高度経済成長」を掲げた池田勇人内閣が誕生し、日本は右肩上がりの成長路線を突っ走り始めた。東海道新幹線や東名高速道路の建設計画がスタートし、用地買収が始まる。

 「その買収金を巡って、かつての都銀から信託銀行、地銀、信金までが入り乱れて預金獲得競争に走りました。一方では、家電や自動車の輸出が始まり、設備投資のための資金需要はいくらでもあった。私たちが一生懸命お金を集めれば、それが回りまわって日本の産業振興や経済発展の原資になる。われわれが日本経済の屋台骨を支えているのだという思いで、文字通り寝食を忘れて働きました」(金子さん)

 営業の最前線で働いていた金子さんの仕事は目が回るほど忙しく、大変ではあったが、楽しくもあり、生き甲斐にもなっていたという。働けば働くほど会社の業績が良くなり、給料やボーナスが上がっていく。新幹線や高速道路が開通して、人々の暮らしが1年ごとに豊かになるのが手に取るようにわかる。自分たちはその一翼を担っているのだとの思いが激務を支えた。毎日始業時間前には出勤し、帰宅はいつも夜10時ごろ。週末も、会社や顧客から呼び出されれば、スーツに着替えて駆けつける。それを誰もが当たり前のようにこなしていた。

 金子さんがゴルフを覚えたのはそんな時代である。

ゴルフのゴも知らないのに会員権を購入

 「君も必ずゴルフをするときが来るから会員権を買っておいたほうがいい、と会社の先輩に勧められて、ゴルフのゴも知らないのに中津川CC(神奈川県)のメンバーになった。ちょうど30歳のときでした」(金子さん)

 現在もホームコースとして通い続ける中津川CCの会員権を、金子さんはコースが開場する前から購入してメンバーになった。

 「初めてゴルフをしたのは会社のコンペで茅ヶ崎CC(神奈川県)に行ったときです。スコアはハーフで80いくつ叩いたと思うけど、そんなことよりとても感動したことを覚えています。真っ青な原っぱで白球を追う爽快感があまりにも鮮烈で、止まっているボールを思い通りに打てないことも、逆に負けず嫌いの自分に火をつけたのです。こんなに面白いスポーツはないと思いました」(金子さん)

ハンドルをグリップに見立てて握り方をチェック

 やがてジャンボ尾崎が1970年にプロデビューし、日本に空前のゴルフブームが出現する。仕事は相変わらず忙しかったが、その合間を縫ってゴルフの練習にも熱が入った。週に1回、日曜日は必ず練習場に行く。それも朝から出かけ、納得がいかなければいったん昼食をとるために自宅に戻ってから、午後に再び練習場に向かった。さらに平日は―。

 「当時は毎日残業が夜10時頃まで続き、なかなか定時には帰れなかった。だからせめて週に1日くらいは定時に帰ろうと『早帰り日』を決めたのですが、もちろん、真っすぐ家に帰らず、練習場に直行していました(笑)」(金子さん)

 営業でクルマを運転するときはハンドルをゴルフのグリップに見立てて握り方のチェックし、電車に乗ればつり革にぶら下がって左手の小指側3本で握る感触を確かめた。さらに揺れるバスの中では、両足の拇指丘(親指の下にあるふくらみの部分)に体重を乗せて、安定したアドレスの感覚をつかんだ。それほど夢中になった甲斐があって、40歳になる前にシングル入りを果たした。

難しい顧客への営業もゴルフ談義で打ち解ける

 金子さんのゴルフ熱は、仕事面でもプラスになった。

 「まず社内で名前を覚えられました。社内コンペの成績が社内報に掲載され、ベスグロ(ハンデなしの最高スコア)になってたちまち名前が知れ渡りました。営業に出かけた先が難しいお客さまだと評判の相手だったのに、玄関に置いてあったクラブの話からゴルフ談議になって、とたんに打ち解け合ったこともある。そうしたことは一度や二度ではなかったですね」(金子さん)

 だが、それでも銀行マン時代は仕事あってのゴルフ。もっとラウンドしたくても、コースに出るのは月に2回がせいぜいだった。

58歳でキッパリ社長の座を明け渡す

 金子さんが仕事を忘れて心おきなくゴルフに打ち込めるようになったのは、58歳になってからである。横浜支店長を務めた後に、51歳で関連会社の社長に就任したため、“予定”が少々狂った。

 「当時は55歳定年だったので、その年になったらきっぱり辞めるつもりでいた。ところが、はからずも関連会社の社長を任されたため、やめるのが3年遅れました。ゴルフ三昧の生活に入ったのは58歳の時です」(金子さん)

ドライバーの飛距離230ヤードで、同年代の中ではもちろん“飛ばし屋”に属するが、それよりも狙ったところを外さない方向性のよさが目立つ。
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 経営を任される立場を自ら捨てるというのは、ある意味で『清水の舞台から飛び降りる』に等しい決断だったに違いない。それまでの苦労が大きかったほど、人は権力の座を放したがらないものだ。だが、金子さんはあっさり手放した。自らが固く誓った「晩年は自分のために使いたい」という思いを実現するために、である。

 「仕事では、もうやりたいことは十分にやり尽くした、という思いもありました」(金子さん)。リタイア後、ラウンド数は一気に月に8~10回に増えた。

 しかしながら、サラリーマンの定年後は往々にして、『毎日が日曜日』という城山三郎の小説にあるような怠惰な日々に陥りやすいともいわれる。そうした中でかえって老いが進み、心身の健康を損なうといった皮肉めたい人生に変わることもある。

 毎日が日曜日にしないために金子さんは何を考え、どのように行動したか。次回、「思い切って捨てた」ことから始まった、金子さんのエージシューターの道のりについてご紹介していこう。

*)次回(8月18日公開)は、『ゴルフ三昧の余生のために掲げた3つの目標』をお届けします。ぜひ、ご覧ください。