「脱毛に悩むがん患者が、普通に通える美容院を増やしたい」
乳がん患者をサポートする美容師の取り組み
芦部洋子=ライター
上野さんが乳がん患者のサポート活動を始めたのは、聖路加国際病院の乳腺外科部長・ブレストセンター長の山内英子さんが、美容院のお客さんとして通っていることがきっかけだ。山内さんは、脱毛した患者さんたちに単にウィッグをかぶってもらうだけでなく、ウィッグ使用前後も含めた中長期的な美容面のサポートができないかと、上野さんに相談した。
上野さんは「プロの美容師がアドバイスやサポートをすることで、抗がん剤治療による脱毛を経験した方々にも、きれいで、かわいく、カッコ良く、元気に暮らしてほしい」と考えて山内さんに賛同した。まず、乳がんと治療について多くの書籍を読み、山内さんや看護師さんから学んだ後、ネイリストの菅原さんらと、髪や爪に現れる変化とケア方法をまとめたテキストを作成。ビューティ・リングでの講義に使用している。
さらに、上野さんの活動を知って美容院を訪れる乳がん患者の悩みを解決すべく、プロの技術を駆使して、病気と闘う患者さんたちを美容面から支えている。
「ウィッグを脱ぐこと」を勧めるワケ
来店する患者には、抗がん剤投与が終了した後に、徐々に伸びてきた毛のスタイリングに悩む人が一番多いという。
「これまで300人ぐらいの乳がん患者さんのケアをしてきました。抗がん剤による脱毛後に生えてくる毛はクセが強いことが多く、生え方はまばら。患者さんの年齢的に白髪が混じっていることも多いため、上手にカットして、スタイリングのコツを教えてあげないと、自分でセットすることは難しいのです」と上野さん。乳がん患者さんのボリュームゾーンである40代は、病気がなくても髪質が変化する年代。個々人の髪の状態と折り合いをつけながら、新しいヘアスタイルを提案している。
ウィッグ業者は、頭部全体の毛が生えそろうまではウィッグをかぶり続けたほうがよいとアドバイスするケースが多いようだ。しかし上野さんは、「ウィッグはどんなに精巧にできていても人工物。自分の髪が生えてきたら、できるだけ早くウィッグを脱ぐように勧めています」と話す。それは、つらい脱毛状態を経て、やっと髪が生えてきた患者の喜びの深さを知ったことも影響している。
ある患者が、ベリーショートのデザインができる程度に髪が伸びてきたので、「ウィッグを脱ぎましょう!」と勧めた。耳の周りの毛をカットしていたとき、彼女の目から涙がポロポロとこぼれ落ちたことに気づいた上野さんが慌ててどうしたのかと尋ねると、彼女は「ハサミの音が懐かしくて…。やっとこの状態まで来ることができた。日常生活に戻ってこられたと思ったんです」と涙声で答えたという。
自分の髪を切るハサミの音は、つらく長い闘病を経験した彼女には、回復の象徴に聞こえたのだろう。「この言葉はうれしかったですね」と上野さんは語る。
彼女以外にも、自分の髪を切ることができたという事実に感動して涙を流すお客さんは多いという。自らの髪をおしゃれにセットできるうれしさは、患者たちに病気と闘うエネルギーを与えることになるだろう。上野さんができるだけ早くウィッグを脱ぐことを勧めている理由には、このような実体験の積み重ねがあるのだ。