ピーコこと杉浦克昭さん。ファッション評論家、タレント、シャンソン歌手といくつもの「顔」を持ち、メディアで活躍するピーコさんは1989年、眼のがんにかかりました。当時44歳。まさに働き盛りのピーコさんの左目を襲ったのは、30万人にひとりという悪性腫瘍。ショービジネスの世界で最前線に立っていたピーコさんは、決断を迫られます。仕事とがん治療とをどう両立させるのか。自分の未来に「がん」が立ちふさがったとき、何が救いとなるのか。働き盛りのみなさんにこそ、読んでほしい。がんと向き合い、がんと共に生き、働き、がんと決別したピーコさんの言葉です。
手術はあっさり終了したものの、ピーコさんは、「もし転移していたら」という不安に包まれます。検査結果が出るまでの1週間、さまざまな心配ごとが思い浮かんできました。
手術は全身麻酔だったから、拍子抜けするくらいあっさり終わりました。
運も良かったんです。腫瘍そのものも眼球の痛点にあるところにはできていなかったので、がんにかかったときも、通院しているときも、手術そのものも、痛みはゼロでしたから。
ただ、手術が終わった後、はじめて不安にはっきり包まれました。1週間後、取り出した眼球の検査結果が出るまで中ぶらりんの状態ですから。仮に、がん細胞が目の外に漏れてどこかに転移していたら、そのまま入院が続いて、放射線や抗がん剤による治療を受けなければいけません。いままでは痛みから逃れられたけれど、これからはそうとは限らない。死ぬこと以上に、病院にずっと閉じ込められたり、闘病に苦しんだり、痛みに悩まされる方が、わたしとしてはつらいなあ、と思っていたんです。
手術でとったわたしの左目は、東大病院の病理で検査を受けていました。がん細胞が外に出ていないことがわかれば、無事に退院できる。手術からちょうど1週間後の土曜日、佐伯先生がわたしの病室にいらっしゃいました。
「いま、東大病院から連絡がありました」
はい。
「どこにも転移していないって! 明日から4日間かけて抗がん剤を打ったら、もう退院してもいいです」
もし転移していたら、治るかどうかもわからない。そもそも芸能の仕事はとてもできなくなる。そう言われていましたから、先生の口から
「もう大丈夫です」
とおっしゃっていただいたときには、付き添ってくれたおすぎと抱き合って泣きました。ああ、この先生を信頼してよかった。ほんとうにそう思ったものです。
国立がん研究センターがん対策情報センター編
『わたしも、がんでした。 がんと共に生きるための処方箋』(日経BP社、2013年9月発行)より転載。
ファッション評論家・シャンソン歌手・タレント

『わたしも、がんでした。 がんと共に生きるための処方箋』
(国立がん研究センターがん対策情報センター編、日経BP社)好評販売中
医学の進歩によって、「がん=迫りくる死」ではなくなっています。実はかなり多くの人が、がんと共に社会で暮らしています。しかし、がんと共に生きることや働くことは、日本社会ではまだまだ普通のことと思われていません。がんと共に生きるとは、働くとは実際にはどういうことなのか。それを知っていただくために、本書ではがんに関わる当事者の方々に語っていただきました。──「はじめに」より
>>詳しくはこちら(Amazonのページにジャンプします)