ピーコこと杉浦克昭さん。ファッション評論家、タレント、シャンソン歌手といくつもの「顔」を持ち、メディアで活躍するピーコさんは1989年、眼のがんにかかりました。当時44歳。まさに働き盛りのピーコさんの左目を襲ったのは、30万人にひとりという悪性腫瘍。ショービジネスの世界で最前線に立っていたピーコさんは、決断を迫られます。仕事とがん治療とをどう両立させるのか。自分の未来に「がん」が立ちふさがったとき、何が救いとなるのか。働き盛りのみなさんにこそ、読んでほしい。がんと向き合い、がんと共に生き、働き、がんと決別したピーコさんの言葉です。
入院後もハイな気持ちでにぎやかに過ごしていたピーコさん。でも、手術前夜、ひとりで消灯後に窓から花火を見たとたん、「左目が花火を見られるのも、これが最後」と思うと、涙が湧いてきます。
がんの告知から2週間後、わたしは小田原の病院に入院しました。
入院から手術までの間、お見舞いのひとがたくさん来てくださいました。若くてかわいい看護師さんたちともすっかり仲良くなりました。なぜかだんだんハイな気持ちになって、毎日毎日わいわい騒いでいました。手術の前日にもお友だちが来てくれて、そのときはさすがにちょっとほろりとしました。けれども、涙はでませんでしたね。自分でもびっくりするくらい、動揺は影を潜めていたんです。
いよいよ明日が手術という日の夜。みんなが帰ったあと、消灯時間になって、真っ暗な病室の窓の外を眺めていたら、山の向こうに花火が上がるのが見えたんです。小田原の病院だったから、山ひとつ向こうが箱根なのね。夏の芦ノ湖の花火だったんです。遠い花火。だから、音がせずただ、光るだけ。
静かに打ちあがって、静かに花開いて、静かに消える。ひときわ高くあがった花火が3つ、音もなくぱっと広がって、消えたとき。ふと思いました。
わたしの左目が、花火を見られるのも、これが最後なのね。急に涙が湧いてきました。
そのときが最初で最後です。これから無くなる自分の左目のために泣いたのは。
国立がん研究センターがん対策情報センター編
『わたしも、がんでした。 がんと共に生きるための処方箋』(日経BP社、2013年9月発行)より転載。
ファッション評論家・シャンソン歌手・タレント

『わたしも、がんでした。 がんと共に生きるための処方箋』
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医学の進歩によって、「がん=迫りくる死」ではなくなっています。実はかなり多くの人が、がんと共に社会で暮らしています。しかし、がんと共に生きることや働くことは、日本社会ではまだまだ普通のことと思われていません。がんと共に生きるとは、働くとは実際にはどういうことなのか。それを知っていただくために、本書ではがんに関わる当事者の方々に語っていただきました。──「はじめに」より
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