ピーコこと杉浦克昭さん。ファッション評論家、タレント、シャンソン歌手といくつもの「顔」を持ち、メディアで活躍するピーコさんは1989年、眼のがんにかかりました。当時44歳。まさに働き盛りのピーコさんの左目を襲ったのは、30万人にひとりという悪性腫瘍。ショービジネスの世界で最前線に立っていたピーコさんは、決断を迫られます。仕事とがん治療とをどう両立させるのか。自分の未来に「がん」が立ちふさがったとき、何が救いとなるのか。働き盛りのみなさんにこそ、読んでほしい。がんと向き合い、がんと共に生き、働き、がんと決別したピーコさんの言葉です。
家族の温かい言葉にはげまされたピーコさんは、手術までの時間を仕事の調整に、友人知人への連絡にと、忙しく過ごします。
取りあえず、がんになったことを家族に話さなきゃ、ということで、病院から戻った翌日、ふたりの姉に話しました。メラノーマと診断されたこと、近々入院すること、左目を摘出する手術をすること、すべてをわたしひとりで決めたことを、ちゃんと説明して、事前に相談しなかったことを謝りました。そしたらね、上の姉がわたしの背中をさすりながらつぶやきました。
「神様がこの子の目をひとつ欲しいというならあげましょう。でもそれ以上は望まないで」
それを聞いて、下の姉が
「わたしの目を、代わりにあげたい。わたしはもう何もいらないから」
って言ってくれたの。
下の姉は3歳の頃から脊髄カリエスで不自由な身なのに、彼女が目をあげたいと言ってくれた。このときはさすがに、わたし、涙、出そうになりました。
家族に救われた思いでしたけれど、自分自身に対してはまだ、悲しい、怖い、という気持ちは、このときはまだあまりなかったんです。手術まで仕事に穴はあけられませんし、入院中や退院後の仕事の調整をしたり、友人知人に連絡を取ったり、雑務と実務で普段以上に忙しかったですね。そのせいか、がんになったことをお友達の永六輔さんに電話でお知らせしたら、
「ピーコ、なんでがんになったのに、そんなに落ち着いて電話かけてくるの。ほんとに、かわいくないなあ」
って言われましたね。
40代でがんになる、というのは結構きついことですけど、わたしの場合、家族はいるけれど、いわゆる家庭はないですから、自分のことだけを考えればいい、という点では悩みが少なかったのかもしれませんね。つれあいやお子さんがいたら、がんは自分だけの病気じゃなくなりますから。治療費からその後の生活についてまで、悩みが何倍にも増えますし。
この先生に全部お任せしよう
そうそう、当時はまだ「セカンドオピニオン」という考え方は、あまり普及していませんでしたけれど、手術までに2週間ほどありましたから、一応ほかのお医者さんにも診ていただいたら、というのは周囲の方たちからたくさんご助言いただきました。ただ、わたしはこのとき、最初にがんと診断してくださった佐伯先生を信用しよう、全面的に任せよう、とすぱっと思ったんです。信頼する熱海のホームドクターの推薦ですし、なにより、わたしに面と向かって、
「わたしは目医者だから、なんとかあなたの目を治してあげたい。取りたくない。でも、あなたが死んでしまうのはもっとよくない。だから左目、取りましょう」
とおっしゃっていただいたのが、とても心に響いたんです。
ああ、この先生に全部お任せしよう、と瞬間的に思いました。だから、あえてほかのお医者さんには伺いませんでした。セカンドオピニオンは大切な仕組みですけれど、一方で自分が身を任せるお医者さんを信じるということも、大切だと思うんです。
国立がん研究センターがん対策情報センター編
『わたしも、がんでした。 がんと共に生きるための処方箋』(日経BP社、2013年9月発行)より転載。
ファッション評論家・シャンソン歌手・タレント

『わたしも、がんでした。 がんと共に生きるための処方箋』
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医学の進歩によって、「がん=迫りくる死」ではなくなっています。実はかなり多くの人が、がんと共に社会で暮らしています。しかし、がんと共に生きることや働くことは、日本社会ではまだまだ普通のことと思われていません。がんと共に生きるとは、働くとは実際にはどういうことなのか。それを知っていただくために、本書ではがんに関わる当事者の方々に語っていただきました。──「はじめに」より
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