ピーコこと杉浦克昭さん。ファッション評論家、タレント、シャンソン歌手といくつもの「顔」を持ち、メディアで活躍するピーコさんは1989年、眼のがんにかかりました。当時44歳。まさに働き盛りのピーコさんの左目を襲ったのは、30万人にひとりという悪性腫瘍。ショービジネスの世界で最前線に立っていたピーコさんは、決断を迫られます。仕事とがん治療とをどう両立させるのか。自分の未来に「がん」が立ちふさがったとき、何が救いとなるのか。働き盛りのみなさんにこそ、読んでほしい。がんと向き合い、がんと共に生き、働き、がんと決別したピーコさんの言葉です。
ピーコさんの場合、はじめて気がついた異変は、左目で見たときにだけ、ものが小さく見えてしまうということでした。しかし、すぐにはがんとはわからず、5カ月後の人間ドックで、ようやく悪性腫瘍と診断されます。
はじめてからだの異変に気づいたのは、44歳の冬、1989年2月の夜のこと。雑誌の連載原稿を書いているときでした。
「あれ? 原稿のマス目がちゃんと見えない…」
マス目の横線にピントがあわないんです。いやねえ、疲れ目かしら。ふと思って、片目をそれぞれつぶって見たら、左目で見たときだけ、ものが小さく見えてしまう。左目になにか異常があるのかな、そう思ってまずは眼科のお医者さんを訪れました。
でも、そのときの診断は、
「うーん、重度の結膜炎かな」
「ついでに乱視が入ってますね」
「あ、あと老眼がちょっと進んでいるかもしれませんから、眼鏡でもつくったらどうですか」というものでした。
その後も特に痛みがあったわけじゃないから、放っておいたんです。あ、眼鏡はつくりましたけど。
次に病院を訪れたのは、5ヵ月後、8月の最初の土曜日です。といっても目の異常を感じたからじゃありません。40歳過ぎた頃からいつもお世話になっている熱海のホームドクターの病院で毎年1回受けていた人間ドック。こちらにおすぎと一緒に行ったんです。そうしたら、その日は偶然眼科の先生がいらしてたんですね。半年前の一件もあったから、念のため眼底検査をしていただきました。
「うーん、網膜剥離ですね」
放っておくと失明しちゃうかもしれない、ということで、すぐに翌日ホームドクターの紹介で、とても腕のいい眼科医がいるという小田原市立病院へ行きました。
すると、そこでも偶然が重なって、本来診療日ではなかった先生に診てもらうことになった。それが佐伯宏三先生(佐伯眼科クリニック院長)です。とにかく人気のある先生で、朝9時に着いたのに患者の行列ができていて、診察の番が回ってきたのは昼過ぎの1時頃。
そのとき、佐伯先生は席を外されていて代わりの先生が、わたしの左目の眼底の写真を撮ってこう言いました。
「たしかに網膜剥離、なんですが、原因はどうやら目の中に腫瘍ができているからみたいですね。腫瘍が大きくなって網膜を突き破っています。ピーコさんが半年前から左目で見るとものが半分に見えるっておっしゃっていたのは、この腫瘍が網膜を破って半分しか残ってないからなんです」
通常の眼底検査だけでは、腫瘍が悪いものかいいものかはわからない。そこで、佐伯先生を待って、直接診てもらうことになりました。
わたし、「がん」なんだ
1時間ほどで診察室に入ってきた佐伯先生に調べてもらうと、
「よい腫瘍には見えませんね。造影剤を入れて、もう一度カメラで見てみましょう。良性だったら毛細血管の色が透けて見えて真っ赤にうつります。黒く見えたら悪性です」
再度撮影した写真を見ながら、佐伯先生が若い先生に話す声が耳に入ってきた。
「周りは赤いけど、真ん中が真っ黒だ。メラノーマだな」
その単語を聞いた瞬間、直接聞かなくてもわかりました。わたし、「がん」なんだ。
国立がん研究センターがん対策情報センター編
『わたしも、がんでした。 がんと共に生きるための処方箋』 (日経BP社、2013年9月発行)より転載。
ファッション評論家・シャンソン歌手・タレント

『わたしも、がんでした。 がんと共に生きるための処方箋』
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医学の進歩によって、「がん=迫りくる死」ではなくなっています。実はかなり多くの人が、がんと共に社会で暮らしています。しかし、がんと共に生きることや働くことは、日本社会ではまだまだ普通のことと思われていません。がんと共に生きるとは、働くとは実際にはどういうことなのか。それを知っていただくために、本書ではがんに関わる当事者の方々に語っていただきました。──「はじめに」より
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