辺見庸さん 「役に立たない人間は、死んでもいいのか」に対峙する
超高齢社会を考える(3)
寺西芝=日経Gooday編集長
「役に立たない人間は、死んでもいいのか」「寝たきりで意思疎通もできない人間は、死んだ方がいいのか」──相模原障害者施設殺傷事件をモチーフにした小説『月』を上梓した、作家・辺見庸氏のインタビュー最終回では、「与死」の概念についてお聞きする。
人は、生きる上で意味や意義を持たなければならないのか。その思想こそが、人を追い詰めていくのではないだろうか。

共同体に深く根ざした「優生思想」
前回、高齢者や障害者の介護の現実といった問題を、社会は見えないようにしていると、そして今の社会はもう、そんなに優しくないとおっしゃいました。
辺見庸さん(以下、敬称略) 僕が最近興味を持っているのは、「与死(よし)」という言葉です。20世紀末ごろに生まれた言葉だと思いますけどね。与死、それは、ある一定の状態に達した障害者や高齢者に対して、合法的に死を与えるという考え方です。
この概念には戦慄を覚えるし、非常に唖然とするわけですが、今の社会は、死を与えるという一定の社会的合意が成されるような共同体に事実上なりつつあるのではないかと思うのです。ただ、与死という概念は、一般的には安楽死や終末医療と結びつきます。ここまで症状が悪化し、治療による回復が望めないのであれば、死んでもらった方がいいのではないか、という話です。
あるいは、家に横たわっている寝たきりの両親がいるとします。介護する側が、「もう疲れた、もういいんじゃないか」というふうに、ふと考えてしまう衝動の中にも、与死という概念があるような気がするんですよね。
これも向き合わなければならないことだと思います。
視点を変えると、人の価値は役に立つこと、あるいは生産性というものが軸になっているという思想にも繋がるような気がします。それは非常に恐ろしいことではないかと。
辺見 そうそう、それは与死と非常に直結する思想ですね。生産性がなければ生きている価値がないのではないか、という考え方は、知らず知らずのうちに強まってきている。あるいは、そういう意識を持つようになりつつあるというふうに僕には見えますね。
その背景にあるものは何でしょうか。経済の低成長も関係あるのでしょうか。
辺見 僕は、国が貧しくなったからこうなったとは思わないですね。国家、あるいは共同体というものの本質に、そういったネガティブな「陰画」部分があると思うんですよ。
例えば、深沢七郎の短編小説『楢山節考』に、こんな一節があります。楢山という地域の寒村のお年寄りたちは、70になったら楢山に向かい、座って死ななければならないという掟がある。主人公の女性は、70になっても歯が全部あることは恥ずかしいことだと考えて、石で歯を砕き、死ぬために楢山に行くのです。
これは小説ですが、老人を捨てるという棄老伝説は、古今東西どこにでもある話です。ある意味、これが本質と言えば本質でしょう。しかし、近代以降は「そういう社会ではいけない」という思想が出てきて、旧来の思想と格闘を続けてきました。こうして現在、一応は、棄老のような考えは持つべきではないということが常識になってきたわけですが、ここへきて再び崩壊してきているのではないかと感じます。