辺見庸さん 介護は「する側」と「される側」の両方の視点で
超高齢社会を考える(2)
寺西芝=日経Gooday編集長
2016年に発生した相模原障害者施設殺傷事件をモチーフに、架空の障害者を主人公としたフィクション小説『月』。著者である辺見庸氏自身、定期的に介護老人保健施設に通い、介護を受ける立場からこの事件の本質を見つめている。
「介護をする側の負担は相当なものです。介護は、する側、される側、どちらが被害者なのか分かったものではない。双方がどのような過程で傷ついていくのか、我々はそこと向き合わなければならない」と語る辺見氏。今回は、介護の現状やその捉え方についてお話を伺う。

老健に通いながら、周囲の利用者や職員を注意深く観察している
前回は、小説『月』について詳しく伺いました。今回は、そこから派生しまして、介護の問題についてお聞きしたいと思います。近年、介護疲れ、あるいは介護疲れによる自殺などが社会問題となっていますが、介護する側、される側、いずれも強い葛藤があるのではないかと感じます。
辺見庸さん(以下、敬称略) 実は、僕は老健(介護老人保健施設)に通所者として通っているんですよ。これは僕にとっては非常に大きな経験でした。目的の30%はリハビリで、残り70%は勉強や観察のためと言えるかもしれません。
ここには入所者もいらっしゃいますが、その大半は認知症に罹患しています。その人たちと一緒に、僕は着座体操をするんです。その時、いつも隣のおばあちゃんから声を掛けられてしょうがないんですよ。お父さん、お父さん、と声を掛けてくる。
そういう経験は今までほとんどありませんでしたが、自分が人間であるということ、相手も人間であるということを、ひしひしと感じられて、ある種の驚きといいますか、感動がありました。自分でもよく分かりませんが、これはおそらく非常に大事なことだと思うんですよ。
同時に、僕はその施設にいる職員たちを一生懸命観察しています。そこに悪意はあるのか。憎しみはあるか。小説の中に出てくる加害者「さとくん」はいないか。懸命に、意地悪く見ているわけです。
もちろん、表面的にはそんな人はいません。正確に言うならば、良かれ悪しかれ、和やかさと優しさを装うことに対してプロ化した集団だと思うんですね。僕のような作家がそういうところに入って観察しているということは、ある種、嫌なことではあるんだろうけど、僕はどうしても、そう見ざるを得ない。

そういう点で、人間という存在物を見るにおいて、新しい目を持ち始めたことは事実です。
認知症と一概に言っても、一人ひとり症状は異なります。逆に言えば、認知症と健常者の境目も薄らいできていると思うのです。僕は、自分自身でも認知症だと思うことがあるんですよね。病理学的にという意味だけではなくて、哲学的にそう考えていいのではないかな、と思う。
認知症は、非常に神秘的なものと言えます。なぜ、こんなことを考えつくのか。こういうイメージを持ち得たのか。あるいは、語られることがいつも一定ではなく、非常に明晰な瞬間もある。人間を定常的に考えるのは間違いであり、可変的であると見るのが正しいのだなと思いますね。
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