辺見庸さん 相模原障害者殺傷事件から見る、「善」と「悪」の境界
超高齢社会を考える(1)
寺西芝=日経Gooday編集長
超高齢社会を迎え、全国で要介護認定を受けている人は650万人を超えている。介護をする、介護されることが日常である社会では、寝たきりの人も日常の風景の一部になりつつある。そんな中、世間を揺るがす相模原障害者施設殺傷事件が起こった。作家・辺見庸さんはこの事件から着想した小説を発表。主人公の一人に寝たきりで意思疎通もできない人を据えた。編集部では高齢化した社会を考える上での重要な小説と考え、編集長が辺見氏に話を聞いた。

2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設にて、元職員の男が入所者19人を殺害するという事件が起こり、世の中を震撼させた。
作家・辺見庸氏は、この事件をモチーフに架空の障害者を主人公とした小説『月』を上梓した。寝たきりの重度障害者「きーちゃん」を語り手として、ストーリーが進む。施設職員であり、後に加害者となる「さとくん」との関わりを軸に、正気と狂気、善と悪、といった曖昧な境界を辿りながら、介護する側とされる側のリアリティ、人間の存在意義などといった根深い問題に切り込んでいる。
「殺される側」の視点から書いてみたかった
小説『月』の主人公は二人。そのうちの一人は「きーちゃん」という寝たきりの重度障害者です。なぜ、主な語り手をきーちゃんという人物にしたのでしょうか。
辺見庸さん(以下、敬称略) 僕はいつも、「見られる側」から書いてみたいと思っているんです。見られるというのは、目で見られる、医者に診られる、両方の意味があります。
通常、他者から見られる側が何を思っているのか。そういうことを書くと難しくなったり、あり得ないじゃないかと言われたりするのですが、どうしてもそれをやってみたかった。それから、この本に関しては、「殺される側」の視点から書いてみたかった気持ちもあります。
「視点」と「書くという行為」は同一であり、ある種の一方的な行為です。例えば新聞は、記者の視点でしか書けません。しかし、小説では被害者と加害者との視点の入れ替えが可能です。あるいは人格の分裂、時間や場所の往来も小説でしか表現できません。僕としては、ここを自由にやってみたかった。
小説だからこそ、想像の中に様々な事実を散りばめて、現実を表現できる。本書を読んだ時、狂気と正気の境界が分からなくなる瞬間がありました。もう一人の主人公である、殺人事件の犯人「さとくん」の立場も分からないでもないと感じる場面があったのです。
辺見 『月』という小説はノンフィクションではなくて、あくまでもフィクションですから、登場人物のさとくんは、現実の犯人と似たところもあるけれど、随分違うわけです。

僕はね、今の世界において、善と悪の境界線というものは極めて曖昧だと思っているんですよ。あの事件そのものに言及するならば、憎しみなどの悪意からなされた事件ではありません。どちらかと言えば、犯人にとっては地域貢献といった善意が動機となっている。僕は遠目に見てそう思うわけです。
大変失礼な話かもしれませんが、僕はあの事件については、発生当時から大変興味を持ちました。歴史を振り返ると、障害者を排除するという行為はナチスのT4作戦など組織的に成されたことはありますが、今の時代に、施設の元職員である個人がやったということに対して、非常に強い衝撃を受けましたね。
ならばノンフィクションで書く方が伝わりやすいのではないかとも思いましたが、僕はどうしても、これはノンフィクションで書くべきではないと思ったのです。