その言葉は、ある日不意に言い渡される―。「がん」。次の瞬間、多くの人は「死」を初めて実感し、我が人生を改めて振り返る。今は日本人のおよそ半分が、なんらかのがんにかかる時代。がんをきっかけに診察室で繰り広げられる人間模様とともに、がん治療の最前線を歩み続ける医師が綴る、現代人に贈る生き方の道しるべ。
「なぜ黙っていた? 時間がもったいないじゃないか」
もうずいぶん昔のことになりますが、ある財界人の最期に立ち会ったことがあります。がんが見つかった時点で、すでに余命は半年でした。当時、がんの告知は一般的ではなかったため、本人には知らされていませんでした。
ところが、どんな理由があったのか本人の知るところとなり、私が呼ばれました。その人は、「死ぬのは全然構わない。でも、なぜ黙っていた? 時間がもったいないじゃないか、やることは山ほどあったのに。あとどのくらい生きられるのか」と、怒りが抑えきれないようでした。
「あと3カ月です」―。私が正直に伝えると、一瞬息を飲んだ後に、「そのうち、(意識がある状態の期間として)どれぐらい使えるのか」と即座に聞き返しました。
大したものだと思いました。一瞬で死を受け入れ、微動だにしなかった。そこから残された時間を余すことなく使い、「あっぱれ」としか言いようのない最期を迎えたのでした。
現在のがん治療は、インフォームドコンセントが主流ですから、患者さんが希望すれば、余命がどんなに短くても、告知をすることになっています。
何歳まで生きられるかはわからないけれども、まあ平均寿命くらいまでは行けるんじゃないか―。
きっと多くの人たちは、こんなふうに自分の命の長さについて楽観的に考えているのではないでしょうか。そうしたところにいきなり「余命」を宣告されたとしたら、動揺するのは無理もありません。
「余命が分かる期限付きの死」のほうがいい
以前、ご紹介した、「がんは百人百様」(関連記事:「がんの専門医でも、答えられないあの質問」)であるのと同じように、がんの受け止め方も百人百様です。先の財界人のような受け止め方ができる人もいる一方で、泣きわめく人、誰かのせいにしないと気が済まない人、「なんで俺ばかりがこんな目に」と悲嘆に暮れる人…もいます。
もしもこの先…、自分の「余命」を知ることになったら、次のように考えてみてはいかがでしょうか。
「死ぬまでの間に猶予が与えられたのだ」と。残りが半年であれ、あと1年であれ、できうる限り「生」を全うすることに意識を向けてみるのです。
そもそも、人間が迎える寿命を「死」から見てみると、2つに大きく分けられます。それは「余命が分かる期限付きの死」と、心筋梗塞や脳梗塞といった血管アクシデント、不慮の事故などによる「余命が分からない突然の死」です。いずれのケースもたくさん接してきた私からすると、前者のほうが、後者よりも「圧倒的にいい」と言えます。