テレビ界きっての多趣味人で、博識の石原良純さん。50代で人生により磨きをかける日々の中で感じている、カラダのこと、天気のこと、そしてニッポンのこと。何事も前向きに生きれば、日々是好転! 今回は、良純さん流のゴルフブームの楽しみ方、そして、高校時代のコースデビューから現在までに経験した忘れられないゴルフにまつわる思い出について聞かせていただきました。
ゴルフが今、大ブーム。
松山英樹選手のマスターズ優勝が、おじさんゴルファーのやる気に火を付けた。そして、三密を避けて手軽に少人数で楽しめる屋外スポーツとして、若い世代もゴルフに注目するようになったようだ。
緊急事態宣言下でも、ゴルフ練習場は大賑わい。休日ともなれば1時間も待たされる。それでも、初夏の風が吹き抜けるゴルフレンジは、コロナ禍でも比較的安全な娯楽施設であることは間違いないと思う。
確かに、若い人が練習場にも増えている。力任せにクラブを振れば奇妙な音を上げてボールは思いもよらぬ方向へ飛んでいく。カラ振りだって珍しくはない。
いいの、いいの。力いっぱいクラブを振ることからゴルフは始まるのだから。それでも、千に三つはフェースがボールを正確にとらえて、ボールが真っすぐ青空の彼方へ飛んでいく。それが、ゴルフの快感というもの。
ゴルフは打率のゲーム。正確なショットの確率が増えればスコアはアップする。でもアマチュアゴルファーにとって最高の褒め言葉は、「スコアがいいですね」でもなければ、「長いパットが入りましたね」でもない。「飛びますね」と言われるのが、一番うれしく思える。
だから、ゴルフ初心者でも、コンペに参加していきなりヒーローになることが可能なのだ。スコアはボロボロでも、ドラコンホール(*1)で千発に一発のミラクルショットが出れば参加者全員に一目置かれる存在になれる。
まずは、思い切りクラブを振ってみよう。思い切りクラブを振ることと、力いっぱいクラブを振ることの差を考えるのは、先のことでいいのだ。練習場でクラブを振ったら、なるべく早く誰かにコースへ連れていってもらえるといい。
洋画のワンシーンのような「あの頃」のゴルフ場
僕のゴルフコースデビューは、高校3年生、18歳の時のこと。ヘルニアでゴルフをやめていた父親の腰の具合が良くなったようだ。ある日曜日、これから一緒にゴルフへ行こうと言い出した。ゴルフの真似事で、練習場でクラブを振ったことはあったが、突然のゴルフは、興味半分、緊張半分だった。
高校生の僕の目に映ったゴルフ場は、正しく大人の社交場。スパイクシューズをコツコツとクラブハウスの高い天井に響かせながらラウンジに進むと、ジャケットを着たメンバーがにこやかにゴルフ談義に花を咲かせている。日常とは一線を画した、洋画のワンシーンのような世界だった。

父親から借りたゴルフクラブのドライバーはもちろん木製。ベンホーガンのドライバーは当時の名器。アイアンは本間ゴルフのセット。シャフトは当時は珍しいチタン合金で、宇宙船と同じ素材なのだと言われたことを妙に印象深く覚えている。
その後、本間のクラブはパーシモンヘッドで全盛期を迎える。その山形、酒田にある本間の工場にテレビドラマ『西部警察』の全国縦断ロケで出かけたのは、僕がゴルファーの仲間入りをして4年ほどたってのことだった。
工場の倉庫には、ゴルファー垂涎の本間のクラブが何千本と並んでいる。バイオレットシャフトなる紫色のシャフトのパーシモンのドライバーは、当時の価格で1本14万円。ゴルフクラブもスキー板も、高いものほどよく売れた、バブル期のあの頃が一番高かったに違いない。
工場内でさすがに銃撃戦はなかったが、聞き込みシーンを終えた後、社長さんが石原裕次郎社長と渡哲也さんにゴルフクラブのフルセットを贈呈した。当時の価格で100万円は下るまい。
続いて他の出演者の方にもどうぞと、人数分のドライバーをまるでダイコンを抱えるように工場長が現れた。1本14万円だから、それだけでまたまた100万円を下るまい。20歳の僕にとっては、目をみはるプレゼントだった。
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