その上で、そのスポーツをより本格的に極めたいと志す子どもたちは、学校の外のクラブチームなどに所属し、競技力を向上させられるような体制にすればいいと思います(もちろん団体種目など、競技によってはそうした体制にするのは簡単ではないことは分かりますが…)。
そうすれば、子ども本人は、本格的にやろうと自身で決めたことに対して責任を持ち、高いレベルの練習や厳しい指導にも、納得しながら取り組もうとするのではないでしょうか。一方、そんな高い意識を持った子どもたちを教える指導者は、より真剣に子どもと向き合い、競技力向上のための厳しいコーチングもしやすくなります。
このようなすみ分けができれば、「同じ指導内容でも、Aくんは納得できて、Bくんはひどい暴言やパワハラを受けたと感じる」という状況が生まれにくくなるのではないかと思います。もちろん暴力による指導は論外ですが、互いの熱意や真剣さが伝われば、信頼関係は深まり、指導の一つひとつが競技力向上や強いメンタルの育成につながりやすくなるように思います。
「アスリートファースト」という言葉はなくしてしまったほうがいい
最後に一点、社会性を失い、私利私欲で動くようなスポーツ指導者や、組織を私物化する競技団体幹部などがいる現状で、「アスリートファースト」という言葉が当たり前のように使われていることを、私は恥ずかしく思います。
「アスリートファースト」というのはもともと、競技団体やスポンサー、大会主催者などの都合ではなく、アスリートが最高のパフォーマンスを発揮できるような環境整備を優先しよう、という意味合いで使われ出した言葉です。
そのこと自体に異論はありませんが、実際には、「アスリートファースト」という言葉を盾に、関係者が自らのエゴを押し通そうとしていると感じることが少なくありません。
どんなに優れたアスリートであっても、社会という集合体の中の1人の構成員にすぎず、オリンピックも社会で生きるための1つの手段にすぎません。オリンピックに関係なく生きている人が大半を占める中で、そんな人たちが働き、この社会を支えているからこそオリンピックが開催できるのだという事実を忘れてはいけませんし、スポーツにさしたる関心を持たない人たちの感情を無視することがあってはいけないと思うのです。
私は、東京オリンピックを含むすべてのスポーツイベントは「アスリートファースト」ではなく、「社会ファースト」であるべきだと思っています。その社会ファーストを実現させるためにも、競技団体の幹部や指導者たちがスポーツを通じて、社会でしっかり生きることができる人間を育てなければ、スポーツの意義が社会の中から失われていくのではないかと危惧しています。
(まとめ:高島三幸=ライター)
元マラソンランナー

1966年岡山県生まれ。バルセロナ五輪(1992年)の女子マラソンで銀メダルを、アトランタ五輪(96年)でも銅メダルを獲得。2大会連続のメダル獲得という重圧や故障に打ち勝ち、レース後に残した「自分で自分をほめたい」という言葉は、その年の流行語大賞となった。市民マラソン「東京マラソン2007」でプロマラソンランナーを引退。2010年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞した。