もう一度メダルを取って、自分の進む道は自分で選びたい
1992年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得した後、私は大きな苦しみの中にいました。さらに上を目指して前進したいという自分の気持ちと、周囲の方向性にズレが生じ、思い通りにいかないことが続きました。いら立ち、悩み、苦しい思いを嫌というほど味わいました。
そんな泥沼のような状態から抜け出すため、私は次のアトランタ五輪(1996年)ではなんとしてももう一度メダルを取りたいと思いました。何かを発言する際、メダルを持っているのと持っていないのとでは、周囲の反応に天と地ほどの差があります。2大会連続でメダルを獲得すれば、自分のやりたいことができる。自分の意思で道が切り開ける――そう信じ、突き進んだのです。メダルさえ取れれば、色は何色でもいいと思っていました。
そうして迎えたアトランタ五輪で、銅メダルを獲得。その直後から、私はプロ転向について真剣に考え始めました。きっかけとなったのは、アスリートの肖像権の問題です。アトランタからの帰国後すぐに、私の元にはポスターやCMなどへの出演依頼が次々と舞い込みました。ところが当時、日本オリンピック委員会(JOC)と日本陸上競技連盟は、それを認めてくれませんでした。そこで初めて、JOCの加盟競技団体の登録選手の肖像権は、JOCが一括管理していることを知ったのです。
「私の肖像権を返してください」
JOCがこうした方針をとるのは、「がんばれ! ニッポン! キャンペーン」(当時)の協賛企業の広告に登録選手を起用してもらうことで、企業から協賛金をもらい、その一部を強化費として競技団体に分配するためでした。しかし、選手に入ってくるお金はそのさらにほんの一部で、協賛企業以外の企業の広告への出演は認められていませんでした。
私は納得できませんでした。バルセロナ五輪の銀メダルと、アトランタ五輪の銅メダル。2つのメダルを手にして、これから走ることを生業にしたいと思っていたのに、肖像権を管理されてしまったら身動きができず、活動も制限されてしまいます。同じ社会の中で生きている他の職業の人は、自分の価値を評価してもらい、正当な対価を得ているのに、ジャンルがスポーツというだけで、なぜアスリートは自由を制限され、生きるための選択肢をもらえないのかと、強い憤りを覚えました。
「自分の肖像権は自分で管理するので、返してください」。私はそうJOCに訴えました。しかし、私の訴えはまったく聞き入れてもらえません。「これはさまざまな競技団体に所属するアスリートの強化費を稼ぐための大事なキャンペーンです」「納得できないのであれば、引退してタレントになればいいのでは?」と言われ、なぜ自分が唯一食べていける「走る」という手段を手放さなければいけないのかと、悲しい気持ちになりました。
平行線が続く話し合いにしびれを切らした私は、「とにかく私は『がんばれ! ニッポン! キャンペーン』からは外れます。強化選手にならなくていいので、個人でお金を稼いで走ります」と事実上のプロ宣言をし、1996年12月に所属先のリクルートを退社して同社と業務委託契約を結びました。そして、JOCを通さずにCMなどに出演したのです。