日経グッデイ

有森裕子の「Coolランニング」

有森裕子 遭難しかけて学んだトレイルランニングの効用と注意点

ゆっくり走って全身の筋肉をほぐし、バランス感覚を鍛えよう

 有森裕子=元マラソンランナー

五輪マラソンメダリストの有森裕子さんが、トップアスリートならではの深いランニング知識を基に、楽しく長く走り続けるためのコツをお届けする本連載。今回のテーマは、近年人気が高まっているトレイルランニング。過酷なイメージがあるトレイルランですが、実は、硬いアスファルトに疲れた筋肉をほぐす効果もあるそうです。

 今年も雨の季節がやってきました。梅雨入りするとしばらく外で満足に走れない日々が続きますが、梅雨のシーズンだからこそ、意識や工夫次第で普段とは違う部分を鍛えられる練習ができます。

 例えば、駅や会社ではエスカレーターではなく階段を使って上り下りし、お尻(臀部)や太ももの裏(大腿後部)を鍛えたり、家では腹筋や腕立て伏せをしたり…。「梅雨=体づくりの時期」と見なせば前向きに練習に取り組むことができ、梅雨が空けた後にケガなくしっかり走れるようになります。詳しくは、「梅雨時こそランナーの“体づくり強化期間”」を参考にしてくださいね。

 さて梅雨が明ければ、日の光が燦々と降りそそぐサマーシーズンの到来です。気温が比較的低い早朝に走るのも暑さ対策の1つですが、お勧めしたいのが、木陰の多い山の中で、森林浴を楽しみながら走る「トレイルランニング」です。

舗装されていない自然の道を走るのが、トレイルランニングの醍醐味。(©maridav -123rf)

 「え! 山道を走るなんてハードルが高すぎる!」と思われた方もいるのではないでしょうか。でも、安心してください。何も急坂を全力で山頂まで駆け抜けろというわけではありません。ここでお勧めするのは、勾配のゆるやかな山を、ゆっくりと走るトレイルランニングです。「脚作りの一環」「練習のマンネリ化の脱却」「体をほぐす手段」として、トレイルランニングはお勧めなんですよ。

トレイルランニングは体をほぐす「ほぐしラン」

 現役時代、私にとってトレイルランニングの位置づけは、フルマラソン出場に向けた初期段階の「脚作りのための練習」と、足や体の疲れをほぐす「積極的休養」でした。「休養のために山道を走るの?」と、これまた驚かれるかもしれませんが、激しい練習をした後にゆるやかな傾斜の山道をゆっくりとリラックスしながら走ると、いつもの練習ではあまり使わない筋肉や神経を使い、脚はもちろん体全体がほぐれるのです。この「ほぐしラン」は、普段、アスファルトなどの硬いロードをたくさん走っている人にとって、筋肉の疲労を取り除くのに有効だと思います。

 さらにトレイルランの効用を挙げると、「バランス感覚を養える」ことです。フラットな平地とは違い、山道には、窪みや盛り上がった土などの凸凹があり、張り出した木の根っこや石といった障害物もあります。上りや下りはもちろん、くねくねと曲がりくねっている道もあるでしょう。一歩一歩に注意を払って、地面の状態に合わせて脚の運びをコントロールしなければなりません。凹凸があれば、着地する足裏の部位もその都度異なります。体全体を右へ左へと傾けながら、バランスを保つために重心を移動させていく。体全体の神経を研ぎ澄ませて、体幹はもちろん、いろいろな筋肉を使うので、バランスよく強化することができます

“不整地ラン”では人間本来の五感が研ぎ澄まされる

木の根っこなどの障害物を瞬時に認識し、着地点を見極めていく。(©ammentorp -123rf)

 私は現役時代、トレイルランが大好きで、特に木の根っこや石などの障害物がある下り坂を走るのが得意でした。瞬時に着地点を見極めながら、接地時間を極力短くして、リズミカルにタタタタタターと下りていく。転びそうになった時に即座に体を立て直すような反射神経も、この下り坂で磨かれたと思います。

 初心者の人は、より集中し、いつも使わない筋肉を使うので、最初は疲労が残りやすく、筋肉痛にもなるでしょう。でも慣れてくれば、地面に対してどう反応すればいいのか、体が覚えてくれますし、安定しない道を走ることで、普段の生活や練習ではあまり使わない、人間が本来持つ五感が研ぎ澄まされていきます。

 ポイントは「ゆっくりと走る」こと。トレイルランに慣れていない人は、スピードを上げすぎると、足首を捻挫したり、障害物にひっかかって転倒したりする恐れがあるので、自分が心地よいと思うペースで集中して走りましょう。

 特に帰り道に多い下り坂は、自然とスピードが上がり、疲労が溜まって集中力が途切れがちになるので、十分な注意が必要です。疲れから脚の運びが悪くなってきたら、ウォーキングに変えたり、木陰で休んだりしてみてください。

米国でのトレイルランであわや遭難!

 現役時代は、フルマラソンのレースの3~4カ月前にトレイルランを取り入れていました。私がよく走ったのは、陸上選手が高地トレーニングを行う米国コロラド州のボルダーです。標高1600mのエリアで、時々マウンテンライオン(ピューマ)やクマが出て来るような自然豊かな場所ですが、登山というよりは、アップダウンを繰り返す山の尾根沿いを、1時間半ほど気持ちよく走っていました。タイムは計りませんが、キロ5分半~6分程度のペースでしょうか。

現役時代、コロラド州ボルダ―での高地合宿でよく走っていたトレイル。

 私は複数人で走るのはあまり好きではなく、自分のペースを守って1人で走りたいタイプ。前に人が走っていると地面の様子が見えづらく、走りにくいイメージがあります。しかし、1人で山道を走るのは遭難などの危険を伴います。かくいう私も一度身をもって体験しました。

 数カ月先にアトランタ五輪を控えた1996年の春先、私は米国ニューメキシコ州のアルバカーキで合宿を行っていました。練習が休みだったある日、メンバーと一緒に3人でトレイルランニングに出かけました。私は途中で仲間と別れ、さらに1人で道を突き進むことに。すると、しばらくして目の前に残雪が広がってきました。そろそろ帰った方がいいな、と思い、折り返して90分以上走ったのですが、元来た道に戻れない…。

ボルダ―のトレイルにはクマ出没注意の看板も。

 「あれ…。道に迷ったかも…」。不安が頭をよぎりました。雪はさらに深くなり、歩くことも大変になってきました。疲労が体を襲います。

 ポケットの中には、2枚の大きなクッキーのみ。水も持参していませんでした。クッキーは早々に食べ、日も落ち始めた夕刻、寒くて不安でこのままでは本当に遭難すると思った私は、歩きながらとうとう

 「Somebody help!」

 「Help me!」

 と大声で叫んでいました。

 当然、誰からの応答もありません。絶体絶命のピンチ!と思った時に、遠くの方でかすかに人の声が。それは、ロープウエイから流れるアナウンス放送だったのです。「あ、帰れる!」と思った私は、その音を頼りに必死に進み、何とか無事に待ち合わせ場所にたどり着くことができたのでした。やっとの思いで合流したメンバーに、遭難しかけた恐怖を話したものの、笑いながら誰も信じてくれませんでしたが、あの時は本当に怖かった…。

 こうしたアクシデントを防ぐためにも、トレイルラン初心者の皆さんは、上級者を交えた複数人でチャレンジしてください。あまり人数が多すぎると、登山者の方などに迷惑をかけるかもしれませんので、2~3人ほどの少人数がいいでしょう。1人1人の間隔を3~4mぐらい空けて走れば、前方にある木の根っこや石などの障害物なども把握しやすく、自分のペースで集中して走れます。5分ほどの時間差でスタートしてもいいかもしれませんね。

危険を回避するための準備が大事

2006年、現役引退レース(2007年東京マラソン)に向けて、ボルダ―のトレイルをウォーキングしているところ。

 トレイルランは準備も大事です。遭難しかかった時の私は、ウインドブレーカーを着用していましたが、Tシャツのみであれば寒さに襲われ、もっと早くに力尽きていたかもしれません。

 山の天候は変わりやすいので、思わぬ雨や風をしのぐためにも、防水性と透湿性を兼ね備えた軽量のウインドブレーカーやレインウエアを小型のリュックに入れ、重くならない程度にも持参するといいでしょう。

 最近では、ビギナーにお勧めのトレイルランニングコースが紹介された書籍などが販売されています。インターネットなどでも紹介されていますのでぜひ調べてみてください。全行程が1~2時間で戻って来られる里山や低山を選び、できればコース全体を事前に把握しておくと、道の起伏を予測しやすく不安が軽減します。

 トレイルランニングができる場所では、山頂までに売店や水場がある場合があるので、事前に調べておけば水などを持参せずに済むかもしれません。また、ライトや地図、時計、携帯電話、予備電池、補給食。また、帽子や日焼け止めなどの熱中症・紫外線対策、虫除けスプレーを使った虫対策もお忘れなく!

 今は山の斜面で滑りにくくできているトレイルランニング用のシューズがあります。足を守るためにガッチリとしていて少し重量があるので、トレイルランニングした後に平地でマラソンシューズを履いて走ると、足がとても軽く感じますよ

 自然を満喫しながら体をほぐし、バランス感覚を鍛えられるトレイルランニングは、フルマラソンにも必ず役立つと思います。自然環境を壊さず、登山者に迷惑をかけないなどのマナーも心得ながら、安全に楽しんでください。

フルマラソンにつなげるトレイルランニングの3つの効用
  • 全身のバランス感覚を鍛える
    木の根っこや石などの障害物があり、曲がりくねった凸凹のある不整地を走ると、脚の運びを複雑にコントロールすることが求められる。足首はもちろん、体を左右に傾けバランスを取りながら走ることで、体幹も鍛えられる。

  • 体をほぐす
    普段、硬いアスファルトの整地で練習している人にとって、山道の軟らかい地面をゆっくり走ることで、普段使わない筋肉や神経を使い、体がほぐれていく作用も。疲れてきたらウォーキングに切り替えたり、木陰で休んだりしてもOK!

  • 暑さをしのぎ、精神も健康的に!
    直射日光を防げる木陰がたくさんあるコースを選べば、夏場も比較的気持ちよく走ることができ、何よりも森林浴ができて気持ちがいい。山頂からの景色を楽しみに走ることができ、精神的にもリフレッシュしやすい。

 (まとめ:高島三幸=ライター)

有森裕子(ありもり ゆうこ)さん
元マラソンランナー
有森裕子(ありもり ゆうこ)さん

1966年岡山県生まれ。バルセロナ五輪(1992年)の女子マラソンで銀メダルを、アトランタ五輪(96年)でも銅メダルを獲得。2大会連続のメダル獲得という重圧や故障に打ち勝ち、レース後に残した「自分で自分をほめたい」という言葉は、その年の流行語大賞となった。市民マラソン「東京マラソン2007」でプロマラソンランナーを引退。2010年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞した。