次の目標は「金メダル」ではなく、駅伝!?
もちろん、私自身も現役時代に「燃え尽き症候群」に近い現象が起こり、練習意欲が削がれたことはありました。
1992年のバルセロナ五輪で銀メダルを獲得した直後、私はうれしさと同時に、「さあ、これからだ!」と、次のアトランタ五輪に向けてステップアップしようと意欲に満ちていました。銀メダルを獲得した私がその時点で燃え尽き症候群に陥らなかったのは、モンジュイックの丘のデッドヒートで私に競り勝ち、金メダルを獲得したワレンティナ・エゴロワ選手が、あまりにも素晴らしい走りをしたから。彼女のような安定したフォームで走れるようになりたい、と強く思ったのです。
そのためにはウエイトトレーニングが必要だと考え、帰国したらすぐに取り入れようと心に決めていました。メダル獲得という結果を出したのだから、自分がやりたいトレーニングをさせてもらえるだろう、とも期待していました。
しかし、その思惑はすぐに打ち砕かれました。五輪が終わった翌日、小出監督(*1)から言われた言葉は、「次は駅伝だな」だったのです。
「え、駅伝!?」
私はがくっと肩を落とし、動揺を隠せませんでした。次のアトランタ五輪で金メダルを獲るために、1日でも早く強化を始めたいのに、なぜ銀メダリストの私が駅伝を目標にしなければいけないのか…。今思えば、監督は私が天狗にならないようにそう声をかけたのかもしれませんが、その時の私は希望とかけ離れた状況を受け入れられず、一気にやる気がそがれてしまいました。
自分が理想と考えた練習ができないことへの苛立ちや焦り、不安。そのほかにもいくつかのトラブルが重なり、どんどん練習意欲はなくなっていきました。すると「有森は燃え尽き症候群ではないか」と周りから非難され、さらに体が動かなくなり…。記録が出る、出ない、ということからはほど遠い状態になる中で、足も痛み出しました。コーチやチームメートともうまくいかず、チーム内で浮いた存在になって、悩む日が続きました。
当時の私は、銀メダルをさらに輝かせたいと前向きに思っているだけでした。でも、何もかもがうまくいかない。自分が悪いのだろうか、どうすればいいのだろうかと、メダルを見ては涙する日々が続きました。
その後、私は“負のスパイラル”を断ち切るために、足の手術を決断。入院していた病院で出会った足の悪い患者さんなどから励ましを受け、もう一度メダル獲得に向け挑戦してみようと、アトランタ五輪へ立ち向かう意欲を取り戻すことができたのです。